2011
3/22
東北関東大震災
はじめまして、歯科衛生士の小松です。
主人の仕事で横浜市都筑区へ引っ越して来て、7年目を迎えました。
私と主人の実家は秋田市です。11日の地震当日は、実家に帰省中でした。
長い間、闘病中だった父が9日になくなり、私と小学生の息子、娘の三人で10日飛行機で帰省したのです。
空港に着くと、3月だというのに一面雪が積もり、空からは次から次へ雪が降って来て、、、
冬に帰省したことのない子供達は大喜び。
11日は父の火葬の日でした。朝から雪が降り、とても寒い日でした。
無事に火葬を終え、親戚一同で実家に帰えると、祭壇の周りには花籠が飾られていました。
父の写真と遺骨を置き、「おじいちゃん、芸能人みたい~」と子供達と笑って喜んでいたその時です。
私の携帯電話が、聞いたこともない音で鳴り出し、地震速報
「地震来る」、
と、私が大きい声でみんなに伝えて、直ぐに地震が、、、
今まで経験したことのない、長~い、長い大きな地震でした。築37年の木造の家がギシギシと鳴り響き、崩れるかと思いました。ほとんどの親戚と子供達は外に避難しましたが、私は座りこんで動けない叔母達をおいて外へ行けませんでした。
おかげ様で、誰も怪我することなく、祭壇も崩れず無事でした。
地震直後、停電になりそれでも、夕方からのお通夜はろうそくの灯りの中、執り行なわれました。
ファンヒータのストーブが使えなくなって、石油ストーブ1台だけ。
余震が続く中、「もし戸が開かなくなって外に逃げれなくなったら」と、家の戸は開けたまま。
ストーブ1台あっても、吐く息は真っ白。ろうそくの灯りが余震で揺れ、月明りが雪に反射して妙に外は明るく、そんな中で食事をしました。
この時私達親族はまだ、この地震でどれほど恐ろしい現実になっているのか多くの人達が津波の被害にあっていたのかを知りませんでした。
12日の葬式は、父の70歳の誕生日でした。この日も停電は続いてていましたが、水道ガスは大丈夫だったので、御膳やオードブルも届き、また親族も集まりました。
父は幸せだと思います。地震で被害にあった多くの方々にくらべたら、火葬して葬式もできたのですから。
私にも青森、岩手、宮城、福島と友人、知人がいます。また多くのお世話になった人、その親戚もいます。
以前同じマンシに住んでいた家族は、去年の8月に都筑から仙台に転勤になり、皆無事だったそうですが、体育館で避難生活を送っていると連絡がありました
本当に一日も早く復興出来ますように心からお祈り致します。